連盟の運営 4

連盟では、まず規約自身が当初から、手続き事項等一定の場合には過半数によって決定できると定めました(第5条2)。


手続き事項とはいえ、全員一致原則が崩れたことは当初の予想を越えた、新しいしかも積極的な進展でありました。


・・・ところが連盟は、その後の実際の運営の中で、規約にいう実質事項の中のいくつかについては、過半数によって決定できるようにしました。


とくに「決定」と「勧告」の相違に着目して、後者については単純過半数によることができることとなったのです。


連盟の主な活動分野は、国際的な政治問題や紛争の処理、国際的な経済政治協力、委任統治の3分野が主要なものでした。


・・・この形は、今日の国連でも踏襲されています。

連盟の運営 3

今日でもそうですが、国際機構がその予定された役割を有効に果たすことができるためには、財政的に困難に陥らないことが不可欠です。


予算問題に関する連盟規約の規定は、「連盟の経費は、連盟総会の決定する割合に従い、連盟国これを負担す」(第6条5)という曖味な内容のものしかありませんでした。


・・・しかし連盟では、若干のいきさつはあったのですが、最終的には総会がすべての権限を握ることになりました。


このことは、連盟が、多くの試練に出会いながらも、曲がりなりにも第二次大戦勃発直前までその存在を保つ(正式の解散は1946年)ことを可能にしたのです。


国際機構の運営という問題との係わりで、いま一つ大きな問題になったのは、国際社会の意思が国家の意思を制約することが許されるのか・・・


また、許されるとしてもその限度をどのように考えるべきか、という問題でした。


この問題は、具体的には国際機構での意思決定の方法という形で問われます。

連盟の運営 2

連盟の設立にもっとも力をいれていたウィルソン大統領のアメリカは、世界的役割を担うことに消極的だった議会の姿勢を崩せず、初めから参加しないことになってしまいました。


ドイツは1926年に参加することが認められましたが、1933年には脱退してしまいます。


ソ連は1934年に参加が認められるのですが、1939年には除名されます。


設立当初からの加盟国だった大国の中でも、日本は1933年に脱退してしまいました。


・・・このように、連盟で中心的役割を担うはずだった肝心の大国の構成自体に出入りがあったこと・・・


また、これら大国が連盟を無視する行動に訴えるようになることによって、連盟の影響力が有効に発揮されないことになるのです。


この苦い経験は、のちに国連の創設に当たって教訓として取り入れられることになります。


国際機構の問題を考える場合、もう一つ見落してはならないものに財政問題があります。


連盟の運営

連盟の現実の運営がどのように行われたかについて、国際機構の発展という観点から、ごく簡単にみておきましょう。


連盟が国際機構の歴史の中で重要な位置を占めるものと評価される一つの理由は、その常設的性格が明確になった点にあります。


・・・つまり総会は、発足までの段階では、数年に一度しか開催が予定されていなかったのです。


・・・ところが第1回総会は早々と、毎年9月の第1月曜日に招集することを決定しました。


また、理事会については、毎年少なくとも1回会合する予定(規約第4条3)とされていましたが、1923年12月以後は年4回の通常会期を持つことになりました。


ただし理事会につきましては、次の点を踏まえておきたいと思います。


それは、連盟では、その後の国連に先立って、大国が常任理事国として中心的役割を担う、活動的な組織となることが予定されていたのです。

日本農業における非関税障壁 2

農産物の輸入制度は、米・小麦・大裸麦の場合には食管制度、脱脂粉乳・バターの場合には加工原料乳不足払い制度、生糸の場合には繭糸価格安定制度というように・・・


国内における農産物価格政策の一環として位置づけられ国内政策との有機的関連の下に運用されています。


これらの国家貿易は形式的にみた場合、次の二つの特徴をもっています。


第一に、それは国家による貿易独占であり、民間の自由な貿易はいっさい排除されているという点です。


もっとも、すべての貿易実務を直接に政府機関が担当しているわけではありません。


末端における実務の多くは商社などの民間企業が政府からの委託を受けて代行していますが、それらはたんなる下請業務であり、自主性はまったくないのです。


輸入数量・価格・輸入先・品質・輸入時期などの基本的事項はすべて政府が自らの責任において決定しています。


第二に、これら国家貿易品目の価格・数量の決定基準ないしルールが、国内の農産物価格政策との関連で設定されていることです。

日本農業における非関税障壁

狭義には関税を除く輸入制限などの各種の国境調整措置を指し、やや広義にはこれに国内農業政策を含ましめ、最広義には各国の文化的・慣習的特殊性にまで範囲を拡大してもちいられます。


そのいずれが適切かは問題のたて方によりますが、ここでは狭義の非関税障壁に問題を限定して検討を進めることにしましょう。


日本農業における非関税障壁には、大きくいって国家貿易と残存輸入制限という二つのタイプがあります。


前者は国家ないし国家的機関が独占的に貿易を行なうものであり、ガット上は合法です。


後者はガット上は非合法ですが、事実上輸入数量制限、輸入割当を行なうものです。


そして、そのいずれもが国際的圧力の下できびしい見直しを迫られているというのが最近の状況です。


ガット第17条は、国または国家的企業が排他的・独占的に輸出入を行なうものを国家貿易企業として原則的に承認したうえで、そのビヘイビアについて一定の規制を加えています。


現在日本には、以上の国家貿易に該当するものとして、米・小麦・大裸麦・脱脂粉乳等・バター・生糸の6品目があります。

関税割当数量について 2

農業関税には一般的な関税以外にさまざまな特殊形態の関税があります。


なかには差額関税や関税割当などのように、輸入数量制限に匹敵するか、あるいはそれに準ずるような強力な保護効果をもつものもあります。


・・・しかし全体としてみると、それらはごく一部の例外にすぎず、むしろ農業関税は大勢としてケネディ・ラウンド以来の相次ぐ大幅引下げによって、ますますその保護機能を薄めつつあるのです。


もともと日本農業の場合、国境調整の手段としては関税は副次的・補助的役割しか占めていなかったのですが、そうした傾向がさらに強まっているのです。


ただし、農業交渉の焦点が非関税障壁に移り、数量規制の撤廃が問題にされるようになると、その経過措置ないし代替措置として関税政策め見通し・強化が再浮上してくる可能性もあります。


その意味では、農業関税はつねに非関税障壁とワン・セットでとらえられねばならないのです。


農業非関税障壁非関税障壁という概念にどこまでのものを含めるかは人によって異なります。

関税割当数量について

割当と関税との中間にあるのが関税割当です。


一定数量までの輸入は無税ないしごく低率の関税を課し、これを超える輸入については高率の二次税率を適用するという形をとります。


今回のウルグアイ・ラウンドにおいて、アメリカがタリフケーションの具体的形態として提案してきているのがこの関税割当であることは有名ですね。


現在こうした関税割当が適用されているのはナチュラル・チーズ、肉用肥育素牛、コンスターチ用とうもろこしなどがあります。


ナチュラル・チーズの場合、国内需要見込数量から国内生産見込数量を差引いて限度数量を算出し、これについては無税、これを超える輸入については35%の関税が課せられることとなっています。


そして特恵関税というものがあります。


以上にみたのは保護的性格の特殊関税ですが、特恵関税の場合はそれとは逆に低開発国を対象に特別の優遇条件の低関税を差別的に適用しようというものです。


現在日本の農業関係の特恵関税は適用総品目数77、対象国数129力国にのぼっています。


具体的にみると、たとえばパパイヤは一般税率4%に対して特恵は無税となっています。

エーゲ世界 4

部屋の中央にある炉の粋には波頭文がつらなっていますし、また柱頭も彩色されています。


ピュロスの出土断片は、種類も量も多いです。


それほどでないにしても、ミケネ、ティリンス、オルコメノス、テーベの宮殿跡からも壁画片が出土して、ミケネ人の技法や趣味をうかがわせます。


これらは偶然に残ったものであるにしても、ミケネ壁画の傾向を知るには十分でしょう。


まずミケネ壁画は当然のことながら、表現も画題もクレタを模倣しています。


「牛跳び」(ティリンス、オルコメノス)、「廷臣や官女の行列」(ピュロス、ティリンス、テーベ)は構図までもクレタ壁画を追っています。


また「箱を両手で捧げるように持つ女たち」(ミクネ、ティリンス)、「ヴェランダの女」(ミケネ)、「竪琴をひく女」(ピュロス)などの服装はクノッソスの官女と変わりません。


しかしながら異なった印象をあたえます。


それは表現力の問題よりも表現理念にもとづくと思われます。


エーゲ世界 3

時代が進むとともにクレタが成長して、海上活動は束地中海に及び、キクラデスはもとより、本土の一部も勢力圏につつみこみます。


このクレタ文明はオリエントの先進文明と肩をならべるほどに高く、また独創性をもっていて、エーゲ文明の本体ができあがるのです。


ところが前15世紀の半ばになると、以前から興っていたミケネ人の蓼力が強大になって、クレタに代って海としてクレタの覇権よりは広く、その文明は広く拡がります。


ミケネ文明はクレタ文明を全面的に受けいれて、エーゲ文明の後期を代表します。


しかしこのミケネ人はギリシア人と同じインド・ヨーロッパ人種ですが、クレタ人は地中海人種であって、そこにクレタ文明は変容します。


・・・このようなエーゲ文明のなかの諸文明の消長と交代をもう少し詳しくしめすと、絶対年代に多少の差はありますが。


ミケネ時代の領主たちの住居は、クレタ宮殿とは構成では異なっていたけれども、内部装飾の主たるものは、クレタを模倣した壁画でした。


メガロンをはじめ重要な部屋はクレタ宮殿と同じように、周囲の壁ばかりか、天井、長押の上、腰羽目などにも壁画が描かれていました。


ピュロスの発掘者ブレーゲンはその著書に、壁画で少しばかりけばけばしいほどに華麗なメガロンの想像図をのせています。


玉座の背後の壁にはグリフィンと獅子が相対しており、他の壁面には鹿、岩にかけて竪琴をひく女性、飛ぶ鳥が描かれています。


天井や長押の上は花文、連渦文、市松文が彩り、漆喰の床には碁盤目をひいて幾何学文様を納めています。

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